2022.10.22 風間 洋
はじめに
このたびは、山木一族会の皆様の前で、発表の機会をいただきましてありがとうございます。その際、貴会で刊行されました八巻俊雄様の御著書『八巻一族八百年の歴史』をご恵贈いただき、早速拝読いたしました。
このご著書では山木兼隆が頼朝に討たれて以降、山木(八巻)一族が苦難を乗り越えて山梨や東北に広く分布し、現在のように一族が広く繁栄されているご様子を丁寧に追跡されておりまして、大変勉強させていただきました。八巻一族の御子孫の繁栄の様子は、『八巻一族八百年の歴史』により明らかなように、多くを付け加えるべきものもありません。
そこで今回の自身の報告は、山木兼隆が伊豆に配流となった前提とその一族の系譜を考えたいと思います。山木兼隆は、「父に訴えによって伊豆に配流となり、平清盛の権威をかさに着て伊豆の目代となって勢威をふるったため、源頼朝が挙兵に際して最初の討伐と標的とされることとなった…」と『平家物語』や幕府の公式記録の『吾妻鏡』には描かれています。
しかし、何故兼隆が伊豆に配流されたのでしょう。また、そもそも兼隆とは平氏一流といわれますが、実際どんな一族なのか、その詳細は明らかではありません。また、兼隆は伊豆に配流される以前、どのような活動をしていたのでしょう?今回は、近年の研究をもとに兼隆の伊豆配流以前の様子、父や祖父の活動などを近年の研究を再構成しながらご紹介します。
兼隆の系譜-貞季流伊勢平氏の活動-
前述したように『平家物語』や『吾妻鏡』では、兼隆を「平氏家人」「平氏一流」と紹介し、平清盛に連なることで伊豆の目代(現地の長官)に任ぜられたように描いています。
しかし、系図によると山木兼隆は、平氏一門であることは確かですが、清盛とは別系統の平貞季を祖とする伊勢平氏の出身なのです。近年の研究では、貞季流平氏は伊勢国一志郡曾根荘など(三重県松阪市や津市ほか)を根拠地として伊勢国内に多くの所領に利権を有する国内最大の武士団であることが明らかにされています。
兼隆の祖父盛兼・父信兼の代になるとその活動は、京都での活動が顕著となっています。京都の警察権などを差配する検非違使という武門の要職に就任すると同時に朝廷からは従五位という武士としては極めて高い位(五位以上は殿上人として貴族の仲間入り)を得ているのです。
都での活動として、火事に際しての出動や皇族の行列の供奉にとどまらず、延暦寺の僧兵の強訴に対峙したり、兵数千を率いて上皇の御所の警備したりなど、武門の家柄にふさわしい活動が当時の記録から散見されます。それと同時に土佐や河内、和泉、出羽など各国の受領(一国の政務の長官)も歴任しており、この役得で莫大な富を得ていたと考えられています。
1156年7月に都でおきた保元の乱では、盛兼・信兼父子は平清盛配下ではなく、独立した一部隊を率いて白河天皇方として参戦していますし、1181年1~2月にかけて本拠地の伊勢・志摩に熊野の衆徒(武装した僧侶)が乱入した際には、朝廷や伊勢神宮の依頼を受けて信兼は自身の「党類」を率いて二度にわたって撃退しています。
また、1183年7月に源義仲による京都入京に際して、平宗盛らは幼帝安徳天皇を戴いて都から西海に落ちていきますが、信兼一党は、それには従わずに自身の勢力圏である伊勢にとどまっています。このことからも兼隆の祖父や父は、同じ平氏ではありながら、清盛一門とは一線を画す独立した武士団であったといえるでしよう。
このように兼隆の祖父や父は、伊勢国北部・中部に勢力を有する伊勢平氏の出身であり、各国の受領を歴任しながら富を蓄える一方、都では検非違使などの治安維持にあたる有力な武士団として活動していることが明らかになりました。近年の研究では、このように自身の本拠地の富を背景に都とのつながりを有する武士を「京武者」と呼んでいます。兼隆の一族は伊勢出身の京武者の家柄でした。
兼隆の足跡―京都から伊豆へ―
兼隆も伊豆に配流される以前、京都での活動が僅かながら確認されます。1176年4月、検非違使として賀茂祭の警護役「平兼隆」と登場するのを初見として、翌年5月には上皇の命により比叡山延暦寺の前天台座主である明雲を監視し、翌年には五位の地位を得ています。祖父・父と同様に順調な出世を遂げていたと思われます。
しかし、1179年1月、突如父兼の訴えにより右衛門尉を解任され、まもなく伊豆国山木郷に配流となったものと思われます。そして兼隆が頼朝の挙兵によって館を急襲され、非業の最後を遂げるのは翌年8月17日です。
なぜ兼隆は父から訴えられたのでしょうか。伊豆に流刑となるような大罪とは何なのでしょう?兼隆の生涯の中で最大の謎であると思われますが、残念ながら諸記録からは、その理由は伺うことはできません。今後の資料の発掘や研究の進展が望まれるところです。ただ、系図によると兼隆には兼衡・信衡・兼時という兄弟がいたことが確認できます。
とくに兼衡は、兼隆が伊豆に配流となった直後に父信兼の推薦で皇太子(のちの安徳天皇)の帯刀(御剣役)に就いています。推測ですが、兼隆の兄弟間で家督を巡って争いがあったのかもしれませんし、父信兼が兼隆を廃して家督の座を兼衡に据えようとした親子の確執が生じたのかもしれません。今後の課題です。
平安時代には兼隆が流された伊豆という土地は、重罪の貴人が流される流刑地として位置付けられていました。平治の乱で平氏に敗れ、捕らえられた源頼朝もその一人でした。源氏の御曹司で、都では右兵衛佐という高位に就いていた頼朝のもとには、乳母であった比企尼や母の実家である熱田大宮司家から経済的な援助を得ることができました。下級官人の三善康信は、めまぐるしい当時の政治情勢を都から逐一知らせていたといわれています。
流人に過ぎなかった頼朝がその後に武家政権の確立に成功した理由として、彼の周辺に集まったこうした人材の豊富さがあげられていますが、同様に都で高い地位に就いていた兼隆の周辺にも集まっていたことは想像に難くありません。残念ながら、兼隆が滅ぼされてしまったため、その痕跡を辿ることは困難ですが、兼隆の後見人(有力家臣)として「堤権守兼行」、郎党(家臣)として「河内国住人関屋八郎」、親戚として「史大夫知親」が記録に見えます。
堤兼行は河内国津積郷の出身、関屋八郎も河内国石川郡の出身とみられ、父信兼が河内国の受領をしていた縁により、主従関係を築いた家臣として伊豆に連れてきたものと思われます。史大夫知親は、「史大夫」の名乗りから、行政能力に長けた中原知親という文官貴族と考えられています。彼は活躍の場を求め、都から兼隆を頼って伊豆に下ってきたのでしょう。
伊豆の支配として軍事・武力を兼隆が、行政を知親が分掌しようとしていたのかもしれません。この他にも軍事や行政手腕に長けた多数の人材が兼隆の周辺には集っていたと思われますが、残念ながら兼隆が滅亡してしまったために記録には残っていないのです。兼隆の不運は、自身の周辺の組織を固め、国内の武士を掌握する時間がほとんどなかったことだ思われます。
伊豆に配流されてから一年半、目代に就任して僅か一ヶ月半足らずの1180年8月17日、源頼朝を担ぐ北条時政ら伊豆国内の武士の突然の攻撃を受けて討たれてしまったのです。
当時の関東各国の武士たちは、平家に結び付くことで栄達を遂げようとする派閥と、これまでのように国衙(各国の政治経済を司る役所)に仕えようとする派閥に分裂し、抗争を繰り広げていました。伊豆国でも同様で、近年の研究では、兼隆の滅亡もこの国内武士の派閥抗争に巻き込まれて討たれた、という説が唱えられています。
一方源頼朝は、流刑時代に培った豊富な人材を駆使して東国の武士の抗争を巧みに調停して支持を得て東国に確固たる基盤を固めます。そして後白河上皇ら京都の朝廷勢力とも互角に交渉して諸権限を獲得し、ついに鎌倉に武家政権を樹立することになります。
おわりにー兼隆討伐のその後-
兼隆は頼朝を担いだ北条時政ら伊豆の武士たちによって討たれてしまいましたが、伊勢に拠っていた父の平信兼は、西国に落ちていった平氏一門とは一線を画して健在でした。
1184年1月、都落ちした平氏に代わって入京した源義仲と、それを討伐する源義経との間で行われた宇治川合戦の際、信兼は伊勢・志摩の兵を率いて手勢が少なく苦慮していた義経軍を支援しています。結局義仲はこの戦いで義経に討たれるわけですが、源義経・平信兼両者が手を組んでいることは注目すべきでしょう。
伊勢の信兼の勢力は、独自勢力として源義経、ひいては頼朝にとっても侮りがたい勢力であったことがうかがえます。
しかし、同年7月には、信兼は伊勢で頼朝が派遣した伊勢の守護と対立して謀反を起こしたとして義経に討伐を受けて討ち死し、同時に信兼息子の兼衡・信衡・兼時ら三人の息子も都で斬殺されたといいます。近年ではこの反乱を「元暦元年の乱」と呼称しています。
半年前までは源氏を支援していた信兼一族がなぜ滅ぼされたのか、現在でも議論があるところですが、義仲勢力が駆逐され、畿内の政情が安定してくると、今度は伊勢に盤踞する信兼の存在が、頼朝にとって黙示し難い障害となったため、謀反を企てたという嫌疑をかけて粛清したのではないか、と推定されています。
いずれにせよ、ここに信兼一族は滅亡し、貞季流平氏は途絶えることとなります。信兼の所領であった伊勢の所領には頼朝の側近が次々と赴任し、現在では信兼らの足跡はほとんど辿ることができません…。
いままでは『平家物語』や『吾妻鏡』といった記録類により、平家の滅亡や頼朝の幕府樹立が当然の歴史の帰結のように語られ、驕りを極めた平家は滅びる運命にあり、頼朝は卓越した能力の持ち主で武家の英雄として描かれてきました。源氏対平氏という単純な対立図式で芝居や書籍などで繰り返し再現されることで現代の私たちの源平史観にも大きな影響を与えていると思います。
しかし、当然と思われている史実にも、実際には様々な偶然や可能性が秘められていたのであり、兼隆ももう少し時間があれば、伊豆から雄飛する機会があったのかもしれません。今一度、兼隆を生み出した貞季流平氏の再評価や兼隆の周辺の家族や家臣の資料の発掘、同時に史実の洗い直しが必要かと思います。
地道な作業を続け、改めて八巻一族の皆様にご報告ができるよう精進してまいります。今後とも御指導のほど、よろしくお願いいたします。ありがとうございました。
『日本の歴史7 鎌倉幕府』石井進 中央公論社 1965
「古代末期における平信兼の動向について」『荘園制と中世社会』正木喜三郎 東京堂出版 1984
『院政期政治史研究』元木泰雄 思文閣出版 1984
『院政期社会の研究』五味文彦 山川出版社1984
『韮山町史』第三巻上 韮山町史刊行委員会1985
『武家の棟梁源氏はなぜ滅んだか』野口実 新人物往来社 1998
『三重県の歴史』稲本紀昭ほか 山川出版社2000
『八巻一族八百年の歴史』やまき同族会 2004
『鎌倉幕府成立史の研究』川合康 校倉書房 2004
『源義経の合戦と戦略 その伝説と実像』菱沼一憲 角川選書 2005
『源平の争乱』上杉和彦 吉川弘文館 2007
『鎌倉源氏三代記』永井晋 吉川弘文館 2010
『治承・寿永の内乱と平氏』元木泰雄 吉川弘文館 2013
『鎌倉幕府の転換点』永井晋 吉川弘文館 2019
『源頼朝』川合康 ミネルヴァ書房 2021
『北条時政』野口実 ミネルヴァ書房 2022
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