八巻同族会とは 八巻姓の歴史 香山寺皇大神社 活動状況 平家(平氏)と八巻 書籍の紹介 お問い合わせ

おしらせ
【香山寺と皇大神社参拝】

令和5年5月20日(土)、コロナ感染症拡大のため2年間の中止を余儀なくされた八巻同族会恒例行事である兼隆公の菩提寺「香山寺」と兼隆公が神として祀られている「皇大神社」の参拝を行いました。
 当日は前夜からの雨も上がり、好天気に恵まれました。JR三島駅北口に午前10時集合し、会長以下総勢13名の参加となりました。会員所有車1台とレンタカー2台の3台に分乗し香山寺へ向かいました。
 寺では林宗洪住職が出迎え、先に檀家さんが待機している皇大神社へと向かいました。坂を何段も上った先に神殿が有り、毎年10月の例祭日に本宮司が来て神事を行い、この日だけ三つの社の扉を開ける御開帳をするそうですが、この日は特別にご開帳をしていただきました。山木皇大神社の本殿は、中央に「山木皇大神社 (天照大神)」、左に「兼隆社 (兼隆大神・兼隆公)」、右に「天神社 (菅原道真朝臣)」の三神が祀られています。檀家さんから説明を受け、一同参拝の後記念写真を撮り香山寺へ戻りました。
 香山寺では平成2年(1990)に建立された兼隆公の供養塔を参拝し、本堂では住職から寺の由来をお聞きし、座禅体験をさせていただきました。
八巻直人 記

兼隆大神座像
皇大神社で集合写真
皇大神社の役員の皆様
八巻兼隆供養塔
供養塔の前で集合写真
供養塔の案内板
香山寺本堂
富士スカイウオーク
【山木兼隆公のご位牌が40年ぶりにご遺族のもとに帰ってきました】

八巻同族会発足の契機となった山木判官兼隆公のご位牌は、約40年前からその行方が不明になっていましたが、同族会発足50年を来年に控えたこの10月に所在が判明して、この度所有者である布施京子会員(初代会長八巻富雄氏長女)の元に無事戻りました。

この経緯については、山木兼隆公終焉の地である伊豆韮山を販売エリアに持つ伊豆新聞社が取材し、10月30日版の伊豆新聞・伊豆日日新聞・熱海新聞に特集記事「熱視線(山木兼隆の位牌戻る)」として掲載されました。

なお、本記事は伊豆新聞社のご厚意により掲載することが出来ました。


(※こちらから記事を閲覧することができます)
【2022年 八巻同族会 総会の開催報告】
〔開催日時〕
 10月22日(土) 11:00~15:00
(総会・11:00~ 講演会・12:00~ 懇親会・13:00~)
  
〔会 場〕
 銀座キャピタルホテル 茜

〔参加者〕
 9名(講師の先生を含め10名)

〔総会次第〕11時~12時
総会 11:00~
開会の辞
黙祷

(八巻脩前会長・昨年10月22日ご逝去)

八巻剛正会長挨拶及び山木兼隆公ご位牌礼拝

会長挨拶の中で、八巻同族会結成の端緒となった初代会長の八巻富雄さんが所持していた兼隆公のご位牌が発見された経緯について話され、改めてご位牌2体へ参加者が礼拝しました。

出席者紹介
議事
  1. 号議案 2021年度の活動報告
  2. 号議案 2021年度の会計報告
  3. 号議案 2022年度の活動計画(案
  4. 号議案 2022年度の予算(案)
  5. 号議案 役員人事について
  6. (1号議案から5号議案まで全て異議なく承認されました。)
閉会の辞
講演会 12:00~
題目 「京都から伊豆、そして鎌倉へ」
    ―鎌倉幕府成立前後の関東情勢・山木兼隆の系譜と可能性―
講師  風間 洋先生

講師の風間洋先生は、大学・大学院では中世の東国史、とくに鎌倉~室町時代の都市鎌倉について専攻され、神奈川県鎌倉市内の私立高校に歴史の教員として20年余勤務されておられます。現在は研究と学校教育を結びつける活動に興味があるそうです。

先生は、「吾妻鏡」、「平家物語」、「源平盛衰記」などの史料をもとに、今回は近年の研究によって明らかになりつつあるこの源平史観の見直し、とくに伊豆の頼朝挙兵前夜の伊豆や関東諸国の状勢、そして山木兼隆の平氏貞季流について、兼隆の周辺や父信兼らの動向を参加者と考えるよう投げかけた。

時間の制限がある中で、豊富な資料を提示して頂き、兼隆討ち死にの背景がおぼろげながら理解されました。続きは懇親会の中でも話していただきました。

記念撮影
懇親会 13:00~
講師の風間先生を囲んで山木兼隆公の時代背景などについて質疑応答がされ、和気あいあいの内に閉会となりました。
記念撮影
講演会模様
懇親会
【八巻同族会総会講演会要旨】
【京都から伊豆、そして鎌倉へ―兼隆の系譜とその紹介―】

2022.10.22
風間 洋

はじめに
このたびは、山木一族会の皆様の前で、発表の機会をいただきましてありがとうございます。その際、貴会で刊行されました八巻俊雄様の御著書『八巻一族八百年の歴史』をご恵贈いただき、早速拝読いたしました。

このご著書では山木兼隆が頼朝に討たれて以降、山木(八巻)一族が苦難を乗り越えて山梨や東北に広く分布し、現在のように一族が広く繁栄されているご様子を丁寧に追跡されておりまして、大変勉強させていただきました。八巻一族の御子孫の繁栄の様子は、『八巻一族八百年の歴史』により明らかなように、多くを付け加えるべきものもありません。

そこで今回の自身の報告は、山木兼隆が伊豆に配流となった前提とその一族の系譜を考えたいと思います。山木兼隆は、「父に訴えによって伊豆に配流となり、平清盛の権威をかさに着て伊豆の目代となって勢威をふるったため、源頼朝が挙兵に際して最初の討伐と標的とされることとなった…」と『平家物語』や幕府の公式記録の『吾妻鏡』には描かれています。

しかし、何故兼隆が伊豆に配流されたのでしょう。また、そもそも兼隆とは平氏一流といわれますが、実際どんな一族なのか、その詳細は明らかではありません。また、兼隆は伊豆に配流される以前、どのような活動をしていたのでしょう?今回は、近年の研究をもとに兼隆の伊豆配流以前の様子、父や祖父の活動などを近年の研究を再構成しながらご紹介します。

兼隆の系譜-貞季流伊勢平氏の活動-
前述したように『平家物語』や『吾妻鏡』では、兼隆を「平氏家人」「平氏一流」と紹介し、平清盛に連なることで伊豆の目代(現地の長官)に任ぜられたように描いています。

しかし、系図によると山木兼隆は、平氏一門であることは確かですが、清盛とは別系統の平貞季を祖とする伊勢平氏の出身なのです。近年の研究では、貞季流平氏は伊勢国一志郡曾根荘など(三重県松阪市や津市ほか)を根拠地として伊勢国内に多くの所領に利権を有する国内最大の武士団であることが明らかにされています。

兼隆の祖父盛兼・父信兼の代になるとその活動は、京都での活動が顕著となっています。京都の警察権などを差配する検非違使という武門の要職に就任すると同時に朝廷からは従五位という武士としては極めて高い位(五位以上は殿上人として貴族の仲間入り)を得ているのです。

都での活動として、火事に際しての出動や皇族の行列の供奉にとどまらず、延暦寺の僧兵の強訴に対峙したり、兵数千を率いて上皇の御所の警備したりなど、武門の家柄にふさわしい活動が当時の記録から散見されます。それと同時に土佐や河内、和泉、出羽など各国の受領(一国の政務の長官)も歴任しており、この役得で莫大な富を得ていたと考えられています。

1156年7月に都でおきた保元の乱では、盛兼・信兼父子は平清盛配下ではなく、独立した一部隊を率いて白河天皇方として参戦していますし、1181年1~2月にかけて本拠地の伊勢・志摩に熊野の衆徒(武装した僧侶)が乱入した際には、朝廷や伊勢神宮の依頼を受けて信兼は自身の「党類」を率いて二度にわたって撃退しています。

また、1183年7月に源義仲による京都入京に際して、平宗盛らは幼帝安徳天皇を戴いて都から西海に落ちていきますが、信兼一党は、それには従わずに自身の勢力圏である伊勢にとどまっています。このことからも兼隆の祖父や父は、同じ平氏ではありながら、清盛一門とは一線を画す独立した武士団であったといえるでしよう。

このように兼隆の祖父や父は、伊勢国北部・中部に勢力を有する伊勢平氏の出身であり、各国の受領を歴任しながら富を蓄える一方、都では検非違使などの治安維持にあたる有力な武士団として活動していることが明らかになりました。近年の研究では、このように自身の本拠地の富を背景に都とのつながりを有する武士を「京武者」と呼んでいます。兼隆の一族は伊勢出身の京武者の家柄でした。

兼隆の足跡―京都から伊豆へ―
兼隆も伊豆に配流される以前、京都での活動が僅かながら確認されます。1176年4月、検非違使として賀茂祭の警護役「平兼隆」と登場するのを初見として、翌年5月には上皇の命により比叡山延暦寺の前天台座主である明雲を監視し、翌年には五位の地位を得ています。祖父・父と同様に順調な出世を遂げていたと思われます。

しかし、1179年1月、突如父兼の訴えにより右衛門尉を解任され、まもなく伊豆国山木郷に配流となったものと思われます。そして兼隆が頼朝の挙兵によって館を急襲され、非業の最後を遂げるのは翌年8月17日です。

なぜ兼隆は父から訴えられたのでしょうか。伊豆に流刑となるような大罪とは何なのでしょう?兼隆の生涯の中で最大の謎であると思われますが、残念ながら諸記録からは、その理由は伺うことはできません。今後の資料の発掘や研究の進展が望まれるところです。ただ、系図によると兼隆には兼衡・信衡・兼時という兄弟がいたことが確認できます。

とくに兼衡は、兼隆が伊豆に配流となった直後に父信兼の推薦で皇太子(のちの安徳天皇)の帯刀(御剣役)に就いています。推測ですが、兼隆の兄弟間で家督を巡って争いがあったのかもしれませんし、父信兼が兼隆を廃して家督の座を兼衡に据えようとした親子の確執が生じたのかもしれません。今後の課題です。

平安時代には兼隆が流された伊豆という土地は、重罪の貴人が流される流刑地として位置付けられていました。平治の乱で平氏に敗れ、捕らえられた源頼朝もその一人でした。源氏の御曹司で、都では右兵衛佐という高位に就いていた頼朝のもとには、乳母であった比企尼や母の実家である熱田大宮司家から経済的な援助を得ることができました。下級官人の三善康信は、めまぐるしい当時の政治情勢を都から逐一知らせていたといわれています。

流人に過ぎなかった頼朝がその後に武家政権の確立に成功した理由として、彼の周辺に集まったこうした人材の豊富さがあげられていますが、同様に都で高い地位に就いていた兼隆の周辺にも集まっていたことは想像に難くありません。残念ながら、兼隆が滅ぼされてしまったため、その痕跡を辿ることは困難ですが、兼隆の後見人(有力家臣)として「堤権守兼行」、郎党(家臣)として「河内国住人関屋八郎」、親戚として「史大夫知親」が記録に見えます。

堤兼行は河内国津積郷の出身、関屋八郎も河内国石川郡の出身とみられ、父信兼が河内国の受領をしていた縁により、主従関係を築いた家臣として伊豆に連れてきたものと思われます。史大夫知親は、「史大夫」の名乗りから、行政能力に長けた中原知親という文官貴族と考えられています。彼は活躍の場を求め、都から兼隆を頼って伊豆に下ってきたのでしょう。

伊豆の支配として軍事・武力を兼隆が、行政を知親が分掌しようとしていたのかもしれません。この他にも軍事や行政手腕に長けた多数の人材が兼隆の周辺には集っていたと思われますが、残念ながら兼隆が滅亡してしまったために記録には残っていないのです。兼隆の不運は、自身の周辺の組織を固め、国内の武士を掌握する時間がほとんどなかったことだ思われます。

伊豆に配流されてから一年半、目代に就任して僅か一ヶ月半足らずの1180年8月17日、源頼朝を担ぐ北条時政ら伊豆国内の武士の突然の攻撃を受けて討たれてしまったのです。

当時の関東各国の武士たちは、平家に結び付くことで栄達を遂げようとする派閥と、これまでのように国衙(各国の政治経済を司る役所)に仕えようとする派閥に分裂し、抗争を繰り広げていました。伊豆国でも同様で、近年の研究では、兼隆の滅亡もこの国内武士の派閥抗争に巻き込まれて討たれた、という説が唱えられています。

一方源頼朝は、流刑時代に培った豊富な人材を駆使して東国の武士の抗争を巧みに調停して支持を得て東国に確固たる基盤を固めます。そして後白河上皇ら京都の朝廷勢力とも互角に交渉して諸権限を獲得し、ついに鎌倉に武家政権を樹立することになります。

おわりにー兼隆討伐のその後-
兼隆は頼朝を担いだ北条時政ら伊豆の武士たちによって討たれてしまいましたが、伊勢に拠っていた父の平信兼は、西国に落ちていった平氏一門とは一線を画して健在でした。

1184年1月、都落ちした平氏に代わって入京した源義仲と、それを討伐する源義経との間で行われた宇治川合戦の際、信兼は伊勢・志摩の兵を率いて手勢が少なく苦慮していた義経軍を支援しています。結局義仲はこの戦いで義経に討たれるわけですが、源義経・平信兼両者が手を組んでいることは注目すべきでしょう。

伊勢の信兼の勢力は、独自勢力として源義経、ひいては頼朝にとっても侮りがたい勢力であったことがうかがえます。

しかし、同年7月には、信兼は伊勢で頼朝が派遣した伊勢の守護と対立して謀反を起こしたとして義経に討伐を受けて討ち死し、同時に信兼息子の兼衡・信衡・兼時ら三人の息子も都で斬殺されたといいます。近年ではこの反乱を「元暦元年の乱」と呼称しています。

半年前までは源氏を支援していた信兼一族がなぜ滅ぼされたのか、現在でも議論があるところですが、義仲勢力が駆逐され、畿内の政情が安定してくると、今度は伊勢に盤踞する信兼の存在が、頼朝にとって黙示し難い障害となったため、謀反を企てたという嫌疑をかけて粛清したのではないか、と推定されています。

いずれにせよ、ここに信兼一族は滅亡し、貞季流平氏は途絶えることとなります。信兼の所領であった伊勢の所領には頼朝の側近が次々と赴任し、現在では信兼らの足跡はほとんど辿ることができません…。

いままでは『平家物語』や『吾妻鏡』といった記録類により、平家の滅亡や頼朝の幕府樹立が当然の歴史の帰結のように語られ、驕りを極めた平家は滅びる運命にあり、頼朝は卓越した能力の持ち主で武家の英雄として描かれてきました。源氏対平氏という単純な対立図式で芝居や書籍などで繰り返し再現されることで現代の私たちの源平史観にも大きな影響を与えていると思います。

しかし、当然と思われている史実にも、実際には様々な偶然や可能性が秘められていたのであり、兼隆ももう少し時間があれば、伊豆から雄飛する機会があったのかもしれません。今一度、兼隆を生み出した貞季流平氏の再評価や兼隆の周辺の家族や家臣の資料の発掘、同時に史実の洗い直しが必要かと思います。

地道な作業を続け、改めて八巻一族の皆様にご報告ができるよう精進してまいります。今後とも御指導のほど、よろしくお願いいたします。ありがとうございました。

『日本の歴史7 鎌倉幕府』石井進 中央公論社 1965
「古代末期における平信兼の動向について」『荘園制と中世社会』正木喜三郎 東京堂出版 1984
『院政期政治史研究』元木泰雄 思文閣出版 1984
『院政期社会の研究』五味文彦 山川出版社1984
『韮山町史』第三巻上 韮山町史刊行委員会1985
『武家の棟梁源氏はなぜ滅んだか』野口実 新人物往来社 1998
『三重県の歴史』稲本紀昭ほか 山川出版社2000
『八巻一族八百年の歴史』八巻同族会 2004
『鎌倉幕府成立史の研究』川合康 校倉書房 2004
『源義経の合戦と戦略 その伝説と実像』菱沼一憲 角川選書 2005
『源平の争乱』上杉和彦 吉川弘文館 2007
『鎌倉源氏三代記』永井晋 吉川弘文館 2010
『治承・寿永の内乱と平氏』元木泰雄 吉川弘文館 2013
『鎌倉幕府の転換点』永井晋 吉川弘文館 2019
『源頼朝』川合康 ミネルヴァ書房 2021
『北条時政』野口実 ミネルヴァ書房 2022
【支部・新年会開催中止のお知らせ】
【香山寺「兼隆公・供養塔」参拝中止のお知らせ】
コロナ第5波の新規感染者がこれまでにない低さで推移してきたこともあり、毎年恒例となりました「支部・新年会」を2月に、「香山寺・兼隆公供養塔参拝」を4月に予定し準備を進めてまいりました。
ところが、正月明けから新規感染者が前週の10倍というペースで急激に増加したことから会としては、本当に残念ですが毎年皆さんが楽しみにしていただいている行事「支部・新年会」及び「香山寺・兼隆公供養塔参拝」の行事を中止することとしました。
次回の計画につきましては、コロナ禍の目途が付いた時点で両企画とも再度計画を練り直しご案内いたします。
その節は、多くの方々のご参加をお待ちしておりますので、よろしくお願い申し上げます。
【2021八巻同族会・総会 開催のご報告】
「2021八巻同族会・総会」を、10月23日(土)に銀座キャピタルホテル茜にて開催し、無事終了しましたのでご報告いたします。

〔開催日時〕
 10月23(土) 11:00 ~ 15:00
  
〔場 所〕
 銀座キャピタルホテル茜

〔会 費〕
 1)6,000円 (1人目)
 2)5,000円 (2人目~)

〔総  会〕11時~12時
1号議案 2020年度の活動報告
2号議案 2020年度の会計報告
3号議案 2021年度の活動計画(案)
4号議案 2021年度の予算(案)
5号議案 新しい組織と役員について第1号議案~第5号議案まで審議され、
いずれも承認されました。
総会模様
全員で記念撮影

〔講演会(勉強会)〕12時~13時

講  演 八巻 正和会員
タイトル 「新発見 八巻之里」

講演は、「東海道・古道(箱根周辺)」と「兼隆公の痕跡(三島国府周辺)」の探求・解明、史料等から現地捜査を実施をすることをライフワークとしている、八巻正和さんにお願いをいたしました。
「八巻之里」は、箱根西坂(足柄峠・箱根峠)の調査の過程で「八巻橋」の存在が分かり、「豆州志稿」の記述のより「八巻里」の存在が明らかになりました。
今回の講演会(勉強会)は、正和さんから、コロナ第4波の中で「八巻之里」発見のニュースが届き、立ち上がった企画です。
話の中で、韮山からさほど遠くない所に、八巻氏所縁の「八巻之里」があったことにびっくりいたしました。
加えて、この「八巻之里」は、あの源頼朝が箱根神社の末寺「新光寺」に寄進したところであるということにさらに仰天いたしました。
今回の、正和さんの発見を梃に、八巻氏の東北進出のルート解明に本格的に取り組みたいと考えています、会員の皆さまのご協力を切にお願いいたします。

正和会員の記念講演

〔懇親会〕 13時~15時

総会で活発な意見交換ったことや正和さんの講演が時間オーバーになったことなどで、懇親会の開始予定に大幅に食い込んでしまいました。
昼食をいただき、質疑応答をして、自己紹介に進む予定でしたが、正和さんから持参の資料説明の要望があり、講演の補足説明と資料説明に移りました。
こちらも予想外に時間が掛かり、結果的に「八巻之里」の質疑応答はできませんでした。
残り時間が少なくなる中で、栃木県から出席された「山木美香」さんに、「山木氏のルーツ探索」と題して、美香さんが9月新潟に赴き現地探索をされてきましたので、この話をしていただきました。
今回は、特に新しい事実をいくつもご紹介いただき大変有意義な会になりなりました。
和気あいあいで賑やに大変盛り上がった、あっという間の4時間でした。
お蔭さまで「2021八巻同族会・総会」は無事終わることが出来ました。

詳細につきましては、来年1月発行の「会報・やまき」第24号に掲載いたしますので、会報のご一読をお願いいたします。

【八巻澄夫前会長がご逝去されました、ご冥福をお祈りいたします】

八巻澄夫前会長が令和3年2月4日にご逝去されました。享年85歳でした。八巻澄夫前会長は、2007年から八巻同族会事務局を5年間努められられた後、東京支部長を経て2014年より第5代八巻同族会会長に就任されました。

2019年会長を退任されるまでの12年間にわたる八巻同族会の重要な役員を努められたが、強いリーダーシップと温かい心で会員間のコミュニケーションを図ることに力を注いで頂きました。

また、八巻澄夫前会長は、ご自身が研究された八巻一族に関する論文を会報に掲載されるなど会の発展に大いにご尽力いただきました。

2024年には50年目を迎える八巻同族会ですが、前会長の豊富な知識と経験をこれからの会の運営のためにご指導いただきたいと思っておりました矢先の訃報に接し、私達会員一同言葉もありません。長い間同族会を牽引していただいた多大のご功績に対して厚く感謝申上げます。

八巻澄夫前会長のご冥福を心よりお祈り申し上げます。合掌

八巻同族会 会長 八巻剛正 記

お元気な頃の八巻澄夫前会長







※本サイトに掲載の記事・写真・図表などの無断転載を禁止します。著作権は八巻同族会またはその情報提供者に帰属します。
Copyright (C) 2009 YAMAKI FAMILY ASSOCIATION AllRight Reseaved.